学ぶという事

浄土真宗親鸞会という独特の教義を語る団体に知ってほしい。

真摯に学ぶとはどういう事か。

おそらく団体にいる殆どが、エリートであっただろう。いつまでも腐ったプライドを捨てられないから、何一つ分からない。腐った頭で腐った事しか考えられない。

 

人間は火葬場で焼く時に「脳」が1番、強烈な匂いを放つという。職員も耐えられないほどなのだそうだ。この話を聞いた時、まことに要らぬ脳ばかりを使って、如来を思う時の少なさよ。脳が燃える時、合掌していけるか。私の腐った脳は要らぬから、如来でめいっぱいになった脳に合掌して人生を終えられるのは素晴らしいと思ふ。

 

☆。.:*・゜☆。.:*・゜学びとは何かを、考える*・゜☆。.:*・゜

(園児さんより)

資料二つを送ります。ともに親鸞聖人の六字釈についてです。前回の資料で残った帰説の左右訓と親鸞聖人が読まれたと思われる出典に対しての補足説明です。

行巻六字釈の「帰説」についての出典は以前の資料でもある程度、調べて出しましたが、今回は梯実円先生の聖典セミナーで紹介されていた出典の原典を極力そのままの形で出しました。説を「悦」「税」と読むことに対しての出典は聖典セミナーでは具体的には紹介されていませんでしたが、「帰説」全体を詩経という中国最古の詩集から採られていることの紹介(蜉蝣の詩)があったので、「悦」「税」についても同詩集から探してみたところ、該当するものがあったのでそれを紹介としました。

もう一つは「帰説」にある左訓と右訓に対しての解釈です。こちらはほぼ自説となります。今までは左訓などは「カタカナ表記の文書をいかに漢字交じりの文として書き換えることができるか」という意識で考えていましたが、カタカナで書かれていること自体がいわゆる日本固有語である「大和言葉」での説明であることに思い至り、まずは漢字を一切考えずに日本語で考えて、妥当と思われた読み方に漢字を当てはめるという事を意識しました。

ポイントは浄土和讃の左訓で帰命の帰の一字に対して「ヨリタノム」と書かれていることで、これが「ヨリ+タノム」の複合動詞の形をとっていることに気づいたことです。ここから日本語の言葉の起源の本や、日本語における複合動詞の歴史などの論文にあたり、考えを煮詰めていきました。

日本語の複合動詞は二種類あって、「子供が喜んで飛び跳ねる」と「出張で海外を飛び回る」の二つを考えた場合、「飛び跳ねる」は「飛ぶ」と「跳ねる」に分解しても意味が大きく損なわれることがありませんが、「飛び回る」は「飛ぶ」と「回る」に分解すると意味を失ってしまいます。前者は「二語の結び付きが緩い複合動詞」であり、後者は「二語の結び付きが強い複合動詞」となります。言語学的には古代から中世(室町時代前)にかけての用例ではほぼ「緩い」結びつきの複合動詞であり、その後、近世から現在にかけて「強い」結びつきの複合動詞が出現し、主流になっていったようです。親鸞聖人時代の複合動詞は当然、「緩い」結びつきだったと考えられるので、ヨリタノムは「飛び跳ねる」のように二語に分解しても意味を失わない複合動詞と考えました。同様の考えでヨリカカルも「緩い」結びつきの複合動詞と考えました。

右訓のタヨリノムは「頼リ祈ム」で正解と思いますが、言葉の上ではどうしてもキリスト教神道の「神への祈り」が浮かんできます。ここは大和言葉として「ヨル」や「ノ」の意味を先行させて、祈願的なイメージから極力、離れるようにしました。別釈としての「他ヨリ祈ム」は、論文にありましたが、宣述人意の意味が顕れる魅力的な考えですので、第二の解として紹介しました。

以上で帰説についての考察がひと段落しました。親鸞聖人がどのように考えを進め、どのような書物を参考にされたかを考えることは本当に面白いです。大天才の足跡をちょろちょろとなぞるような事かもしれませんが、漢文や古文を再考し、今回は大和言葉の語源や文法まで踏み込んで考えることができて、勉強になりました。今後も一文字でもワンフレーズでも自分の頭に沁みこむようにやっていきたいと思います。