素晴らしい視点 ☆。.:*・゜学びの凄さと教義にあたる楽しさをありがとうございます☆。.:*・゜

 

☆。.:*・゜園児さんの考察で、素晴らしい視点を学びました。ご紹介したいとおもいます。

 

善知識方のバトンリレーの話の補足です。出発は昨年、懸命に勉強していた六字釈の話からで、試みとして善導大師と親鸞聖人の六字釈の対照を作ってみた所、見事なリレー関係が浮かび上がったので「これだ」と思った次第です。

(園児さんの考察)

ところが、1か所だけリレー関係が崩れている所がありました。それが善導大師の「言阿弥陀仏者 即是其行」と書かれたところの親鸞聖人の返しが「言即是其行者 即選択本願是也」となっています。リレーのルールから考えると、親鸞聖人は「言其行者 ・・・」と受けるべきですが、文型を無視して「言即是其行者・・・」とされたのです。そもそも「即是」は断定の動詞(英語で言えばbe動詞に相当)ですから、ここを組み入れるのはおかしな話です。

解説書をみてもこの辺の文法的なおかしな点を指摘したものが無く、「即是其行」を一つの言葉として当たり前のように解説しています。「あまり気にしなくていいのかな?」と自分を納得させておりましたが、引っ掛かる思いが続いていました。

 

 

今回「リレー関係」と書かせてもらったのを機にもう一度、調べてみました。「即是其行」という括り方をはじめて使ったのが親鸞聖人であるとずっと思っていましたが、それこそ浄土宗大辞典をみると、浄土宗西山派のかの証空が使っていることがわかりました。参考として証空の文書を資料に加えました。証空といえば親鸞会では「体・不体失往生」で親鸞にやりこまれた法然上人の兄弟子というポジションですが、年齢では親鸞聖人より年下で、法難後、関東にいた聖人を京都に来るように誘ったり、法然上人の最晩年の説法内容を伝えたりで親鸞聖人とは晩年まで交流があったそうです。

法然上人の最晩年の説法は「勝尾寺の法門」と呼ばれており、『無量寿経』の「第十八願」にある、往生するため条件たる「至心・信楽・欲生」の三心は、衆生が開発(かいほつ)するものではなく、既に阿弥陀仏の側が衆生のために用意したものである・・・という教えであるそうです。「即是其行」の括りは信心のみならず行(念仏)も阿弥陀仏が用意したという教えになりますが、それを法然上人の選択本願の言葉で示されたことになります。

 

以上より善導大師→法然上人→親鸞聖人の豪華リレーと書きました。(園児さん)園児さんの添付資料 

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善導大師の六字釈の「帰命」と「発願回向」と「即是其行」という言葉を用いて、「南無阿弥陀仏」の六字の三義をあらわそうとされていると

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なお、このような釈し方を寄字顕義と言うそうですが(行信教校講師にて確認)
たとえば「帰命」は本来「南無」の釈ですが、親鸞聖人の釈は「南無阿弥陀仏」の六字の義を「帰命」の字義に寄せて「帰せよの命」であると言われている