信前行後という方々は、何を喋っているのでしょう。
教行信証 と次第していくのですから自説を勝手に作る気ですか?
高森親鸞会や恵日会では、信前行後 と頑なに言います。
信心正因 称名報恩 を誤解し過ぎて、信心がなければ念仏は要らないという勢いである。
自力の念仏では助からないと聞かされ過ぎて、信前行後、とまで言い出す始末。高森親鸞会の言い方だと更に露骨で柱に頭をぶつけたのが信の一念 痛いと叫んだのが行の一念だそうです。
教 → 行 → 信 → 証 です。
信前行後が教行信証であるとは、どういう意味でしょうか。教行信証は行信前後でしょう。
それと、前後という場合、普通には時間的前後のことになりますが、時間的には同時でありながら、論理的には前後がある場合があります。たとえば、明かりが届いたと同時に闇が去ります。しかし、明来闇去とは言えても、闇去明来とは言えないようなものです。(行信教校 藤澤)