✩.*˚ 第三条は、悪人正機説を明快に説いたものとして、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は現在でもよく引用されている。

第三条は、悪人正機説を明快に説いたものとして、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は現在でもよく引用されている。

 

これは悪をなして良いという意味に取るような人はいない。

 

しかし私の物差しで判断する その善人はどうだろう。

「この様にあるべきだ」ここに罠は無いだろうか…

心の有様を如来に言うならば

「私は如来がなくても善とはこのようなものだと知っております」

最後にたどり着くのは善をこよなく愛する姿では無かったか。

 

如来に任せられない、任せる気も無い、私はもう素晴らしい姿(考え)なのだから、

もう南無阿弥陀仏は要らないのだと

1番南無阿弥陀仏から離れているのは美しいと我が身の姿や考えを思う、

我が身が正しいと思う 心得たると思う人。

人間界というのはなぜ穢土と仰られるのか

そして その判断する分別は本当に正しいのか 如来からご覧になられたら如来の入る隙間も無い分別がびっしりでは無かったか、、、

名を垂れてお願いだからお念仏申しておくれ このお言葉を「念仏したら助かるのか?」と言う人がいる。

なんという愚かな発言をするのだろうか。我が念仏を差し出して如来と取引しようというのか。

念仏したら救われるのでは無い、

念仏した者を救うと仰せ

にっちもさっちも行かないと行き詰まっている者に南無阿弥陀仏の扉が開く 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

正義(私が正しいと思う形)を振りかざす時間は無く命は儚い。

名を垂れて、どうか呼んでおくれ 任せておくれ

振り払うても 振り払うても どうかお念仏申してくれよ という声が 南無阿弥陀仏

それなのに振り払うて大丈夫大丈夫 我が身はちゃんと正邪が分かる分別があると言う

人間の倫理道徳から一歩も出ないぞ ちゃんと分かっている と人にも言う そこが救われないのです

如来をいらないと振り払う心を持つ立派な私が

南無阿弥陀仏をはねつけた私では無かったか、、、

 

我が名を呼んでおくれ お願いだから任せておくれ

頑張ってはねつけなくてよい、お願いだからお念仏申しておくれ

母の声 親の声

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏...