☆。.:*・゜「信心」の残骸を見たければ、富山の親鸞会ちゅうとこに落ちている

「信心」「信心」て、そんなに「信心」が見たければ、富山の親鸞会を見ておいで。あこには色んな人が捨てた信心の残骸が山のように落ちている。

「上官の命令は高森会長の命令と心得よ」という変わった信心。

「三願転入せにゃ 🐜蟻1匹救われぬではないか」という信心も有ろう。

「布施の目標を達成せねばならん、いくら足らんのだ計算を頑張るぞ」という信心。

「指摘を受けた、頭が禿げる程反省せねば助からぬ」という信心も有ろう。

「邪に対する怒りを持たねばならぬ、除名になった奴はナメクジである!」という信心があるなあ。

「他の団体の書籍を読むとは何事ぞ、シロアリめ」という信心もある。

「たとえ、親鸞講師になろうとも不眠不休で頑張って講師部に戻ろう」という信心もある。

☆。.:*・゜☆。.:*・゜☆。.:*・゜☆。.:*・゜まだまだまだまだ何億倍の信心の残骸がある。

きりもきわもない、個々人の信心の残骸が 所狭しと転がっている。散々なものである。これが「信心」という物柄を目指した末路。

狂い回っている「信心」の病。

自分の信心にしか目がいかない。ああ、情けないなあ、阿弥陀様は救うと手を差し伸べて抱えて連れて帰ると仰せ。

それを、振り払って振り払って振り払って、まだまだ善が足らん聴聞足らん、あれもじゃこれもじゃ、人間関係もじゃ、私の信念はこうじゃ、ああしたい、こうしたい、いや本願成就を聞いて助かったから借金無いのじゃ幸せ幸せ、おれは信心決定したぞ話をするぞ、私は私は、俺が俺が、ああではないか、こうではないか、

みんなほれ、自分の話で、頭がパンパン パンパース☆。.:*・゜

阿弥陀様が、手を差し伸べて、つかんで、抱えて連れて帰ると仰せ

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ.......

なんの不満があるんだろうな

義なきを義とす と言った同行様があられたが、あんたあ、義なきを義とすて なんやあ?

☆。.:*・゜☆。.:*・゜

知ったこっちゃないよ 夕顔は つまらん 夕方に名前をお呼びするだけの阿呆

けど阿弥陀様は素晴らしいで

阿弥陀様は素晴らしい

なんの不足があるんだろう