☆。.:*・゜真偽検証さんより引用☆。.:*・゜

【検証】親鸞聖人の六字釈は、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」根拠と成り得るのか

本日は、昨日の「埼玉恵日会」のお話についての記事に関して書きます。阿部信幾先生が根拠として提示した親鸞聖人の六字釈が、本当に

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

根拠と成り得るのか検証します。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音こえなり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音こえなり。悦税二つの音こえは告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。

この内の、「帰命は本願招喚の勅命なり」を出して先生は、

阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

と主張しています。しかし、「我にまかせよ」はそうだとしても、それがどうして「念仏を称えよ」ではないになるのでしょうか? この六字釈を全て読んでも、どこにも「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」に該当することを親鸞聖人は仰せられていません。それで疑問だったのですが、ようやくそれが解けました。

この「帰命は本願招喚の勅命なり」とは、『聖典セミナー 教行信証[教行の巻](梯實圓)』に

 こうして一般には、南無阿弥陀仏とは私が阿弥陀仏に帰命するという、私から阿弥陀仏へという方向で受け取られていたものを、一転して阿弥陀仏のほうから私のほうへと一方的にはたらきかけ、私を呼び覚まして救っていかれるという阿弥陀仏のはたらきに転換し、これによって本願力回向の宗義を明確にしていかれたわけです。とくに本来は「命に帰する」と読み、衆生の信心を表す言葉であった帰命を、「帰せよの命」であると言い切り、阿弥陀仏が大悲をこめて衆生に救いを呼びかける本願招喚の勅命であると言い切られたことは、親鸞聖人の宗教全体を特徴づける意味をもっていました。(p.243)

とあるように、私から阿弥陀仏ではなく、阿弥陀仏から私という方向の転換を意味していたのです。つまり、

・帰命は「帰せよの命」であって「衆生(私)から命に帰す」ではない

ことを言いたかったのです。ですから、先の言葉

阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

これは「 」と「 」の対応が間違っています。正しくは、「我にまかせよ」に対応する語は「念仏を称えよ」ではなく、「衆生(私)から命に帰す」の自力回向だったのです。

阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「衆生(私)から命に帰す」ではない

これが正しい対応になります。「行文類」の六字釈は、名号のいわれを阿弥陀仏の側から明らかにし、仏の名を称えるということが本来どのような意義をもっているかということを根本的にあらわすためにされたもの、つまり「念仏のこころ」を明らかにされた釈であり、「念仏を称えよ」ではないことを仰ったものではないのです。

そのことは次の、「南無」のもう一つの意味である「発願回向」の釈を見るとより分かり易くなります。

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり

と仰せられ、私が浄土に往生したいと願う遥か以前に阿弥陀仏が「必ず往生させる」と願いを発して、衆生に往生の行、すなわち念仏を回施して下さるという他力回施が「発願回向」の心だと仰せられています。ここでも私から阿弥陀仏ではなく、阿弥陀仏から私という方向の転換を表していて、念仏は他力回向の行だと仰ったものであって、「念仏を称えよ」ではないことを仰ったものではありません。

それから、「阿弥陀仏」の意味である「即是其行」については、

即是其行といふは、すなはち選択本願これなり

と仰っています。この説明も先の『聖典セミナー』より引用します。

阿弥陀仏という仏名が、ただの仏名ではなくて、往生の行でありうるのは、法蔵菩薩が平等の大悲心にもよおされて、一切の衆生を善悪・賢愚の隔てなく救いうる行法として選択された選択本願があるからです。すなわち自力の諸善万行を難劣の故をもって選び捨て、最勝にしてしかも至易の徳をもつ名号を選び取り、「我が名を称えんものを必ず救う」と選定された選択本願の行であるから、仏名が往生行となるのです。こうして称名は、阿弥陀仏の救済意志の顕現であるような選択行であるから衆生がことさらに回向しなくても自然に往生の行となる不回向の行であるといわれたのです。それを親鸞聖人は、念仏が不回向の行であるのは、阿弥陀仏が大悲をこめて選択して私たちに回向された大行であるからと展開されたのです。それをここでは、「即是其行といふは、すなはち選択本願これなり」といわれたのです。(p.242~p.243)

私が「南無阿弥陀仏」と称えたから往生の行になるのではなくて、阿弥陀仏が往生の行として選択本願に定めて下されているから称名することが正しく浄土往生の行業になるというのです。ここも同様に私から阿弥陀仏ではなく、阿弥陀仏から私という方向の転換を表しているのであって、「念仏を称えよ」ではないことを仰ったものではないのです。


その後「行文類」では、『五会法事讃』を始め聖道諸師の文までも幅広く引文され、源信僧都法然聖人の御文を引かれています。膨大な『教行証文類』の中、法然聖人の『選択本願念仏集』を引かれているのは不思議とここだけです。親鸞聖人は『選択集』の法義の真実性を証明するために『教行証文類』を書かれましたが、この「行文類」だけに『選択集』を引文されたのは、とくに選択本願念仏という行法の真実性の証明が重要だったからです。称名は仏の本願の行であるから必ず往生することができる。その証明として、宗義を表す『選択集』の題号と、『選択集』の意を集約された「三選の文」を引文されたのです。これは先哲が指摘するように『選択集』全文を引用されたという意味を持っています。

そして「行文類」は有名な決釈へと続きます。すなわち

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

と言われたものがそれです。選択本願の念仏は凡聖自力の行ではなく、阿弥陀仏が大悲をこめて恵み与えて下さる本願力回向の行であり、行者の方から回向を用いない不回向の行であると結ばれたのでした。

親鸞聖人の六字釈は、念仏が本願力回向の行法であることを証明するという意味で、この決釈と対応しています。この決釈に導きたかったがために、善導大師の六字釈を出された後で、今一度ご自身で釈を施されたのでしょう。繰り返しますが、親鸞聖人の六字釈は名号のいわれを阿弥陀仏の側から明らかにし、仏の名を称えるということが本来どのような意義をもっているかということを根本的にあらわされたものです。念仏は他力回向の行であって自力回向の行ではないぞと、「念仏のこころ」を明らかにするための釈でこそあれ、決して「念仏を称えよ」ではないなどという仏意と真反対なことを明らかにするための釈ではなかったのです。


そもそも「行文類」とは、念仏が諸善に超え勝れ、速やかに往生成仏の果を満足させる「最勝真妙の正業」であることを経論釈にとどまらず、広く聖道諸師の文までも集められて証明せられた文類ですから、その中に

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

根拠など存在するはずがないのです。よって

親鸞聖人の六字釈は、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」根拠と成り得ない

これが検証結果です。それを無理やり

阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

とこじつけて仏意を捻じ曲げる先生は、一体何宗の布教使なのでしょうか。

悪意は無いのかもしれませんが、無いのだとしたら余計たちが悪いです。知らずにこんな恐ろしいことを周囲に発言しているのですから。先生には、早く誤りに気付いてこのような教説を撤回されることを切に願います。