✩.*˚本願成就文に「称南無阿弥陀仏」はあるのか 無いのか✩.*˚

✩.*˚昨日ですか、高森親鸞会の人か恵日会の人かは分かりませんが

「なんまんだぶ」

とさえ言っていたら許されると思うな!(早い話 結論として口をついて出た本音)

という強烈なご批判を頂いた訳です。しつこく何度も語尾に南無阿弥陀仏と記しましたから。

そうなんです、いざとなると1番大事な南無阿弥陀仏を我が身の下に持ってきてキレる。

これは私が偉いと言っている話ではなく、そういう者を助ける御本願でありました。

相変わらず、信前行後 としつこく書いて 喜ばれている方が多いですが、龍教さんの言われるように、谷派のドグマでしょうか。僧侶全員では勿論ありませんが、ちょっとだけ勉強した若い僧侶が振り回す「信心正因 称名報恩」。それを延々と金を貢ぐまで持って行ってしまった高森親鸞会。恵日会は教義では、おかわりのようなものです。

かくもご法義に疎い者が仕切ると、恐ろしい間違いを平気で多くの人が喋りだし、私は信心を得たと言って他者をも見下し始める。

しかも、あの人は助かったんです、等と僧侶が言い出す。

聞いた者は「よし!これで、信心ゲット」もうはや取り返しはつきません。

そのまんま、十劫安心まっしぐら。

知らないというのは恐ろしいですね。

さ、気を取り直して、

 

✩.*˚称南無阿弥陀仏しかない✩.*˚

(前回の記事についての龍教さんのお答え)

>称 南無阿弥陀仏は無い」と言われる恵日会は、称南無阿弥陀仏は無いという箇所を出してくだい。

わたしは、「称 南無阿弥陀仏【が】無い」ではなく「称 南無阿弥陀仏【しか】無い」と答えましょうかね。

そもそも親鸞聖人からはそのようにしか聞き及んでいませんから。

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仏説『大無量寿経

 「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。 このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。ゆゑはいかん。多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道においてつひに退転せず。このゆゑにまさに専心に信受し、持誦し、説行すべし

 

其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念。 当知此人 為得大利。則是具足 無上功徳。

是故弥勒 設有大火充満 三千大千世界 要当過此 聞是経法 歓喜信楽 受持読誦  如説修行。所以者何。多有菩薩 欲聞此経 而不能得。 若有衆生 聞此経者  於無上道 終不退転。是故応当 専心信受 持誦説行。」

 

親鸞聖人『浄土高僧和讃』龍樹讃  

「不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな

 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」

「もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道においてつひに退転せず。」

→「不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひと」

(→「五濁悪時群生海」(『おつとめ』))

 

「まさに専心に信受し、持誦し、説行すべし」

→「恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」

(→「応信如来如実言」(『おつとめ』))

 

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親鸞聖人『おつとめ』

 「五濁悪時群生海 応信如来如実言」

 

仏説『阿弥陀経

 「われ五濁悪世においてこの難事を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間のために、この難信の法を説く。これを甚難とす

当知我於、五濁悪世行此難事、得阿耨多羅三藐三菩提、為一切世間、説此難信之法。是為甚難。」

 

親鸞聖人『浄土和讃

 「一代諸教の信よりも 弘願の信楽なほかたし

 難中之難とときたまひ 無過此難とのべたまふ」

 

「五濁悪時群生海 応信如来如実言」

→「一切世間(五濁悪世)のために、この難信の法を説く。

  為一切世間、説此難信之法。」

→「弘願の信楽なほかたし 難中之難とときたまひ 無過此難とのべたまふ」

(→「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(『おつとめ』))

 

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仏説『阿弥陀経』  

「一切世間のために、この難信の法を説く  為一切世間、説此難信之法」

 

親鸞聖人『第一巻』

 「この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。」

 

「群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせん」

→「まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。  

当知此人 為得大利。則是具足 無上功徳。」(『大経』)

(→「阿弥陀仏の御名をきき 歓喜讃仰せしむれば 功徳の宝を具足して 一念大利無上なり」(親鸞聖人『浄土和讃』))

 

親鸞聖人『第二巻』

「ゆゑに『大本』((大経・下))にのたまはく、「仏弥勒に語りたまはく、〈それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。 まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり〉」と。{以上}{乃至}大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。」

 

「〈それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。 まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり〉」

→「大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。」  「弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。」

 

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親鸞聖人『第二巻』三願的証  

「愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。みづから局分(局の字、せばし、ちかし、かぎる)することなかれ  

愚哉後之学者 聞他力可乗 当生信心 勿自局[局字 古玉反]{セハシ チカシ カキル}分也。」

 

親鸞聖人『お手紙』かたがたよりの御こころざしのものども

 「悪をこのむひとにもちかづきなんどすることは、浄土にまゐりてのち、衆生利益にかへりてこそ、さやうの罪人にもしたがひちかづくことは候へ。それもわがはからひにはあらず、弥陀のちかひによりて御たすけにてこそ、おもふさまのふるまひも候はんずれ。当時はこの身どものやうにては、いかが候ふべかるらんとおぼえ候ふ。よくよく案ぜさせたまふべく候ふ。」

 

親鸞聖人『三時和讃』

 「聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして

 他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり」

「(他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし)みづから局分することなかれ」

→「わがはからひにはあらず(弥陀のちかひによりて御たすけ)」

→「(他力不思議にいりぬれば) 義なきを義とすと信知せり」

 

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夕顔さんの宗学の助けになるかは定かではありませんが、「文献を照らし合わせたもの」をここに記します 大谷からは、「また言葉遊びを行じているのか」と揶揄されましたが、ひとまずここに置きます なもあみだ、なもあみだ  龍樹