「何も自分が変わらないと言われるのならば浄土真宗を求める意味が無い 」
このように言われる方が多くなりました。誰それが言ったという事は関係なく、やはり欲望の先にある究極の幸せにならねば求める甲斐が無いというものであろうと言われる方が多いんです。皆さん 立派過ぎる方々なんでしょうね。この世の欲望の果てを目指してどうなります?バンザイ バンザイ やった やった!人生の勝者になった!!ついに日本晴れの境地になった!そんな寝とぼけたもんじゃないぞ!大慶喜と言われる身になった!あなたもこの境地になりませんか!
まあ、わたしの知ったこっちゃないですが、とりあえず 解熱剤か何かを病院の先生に症状を言って、適切な処置を施して貰ってください。自分ひとりで、やったやった!!と言われる分にはそれで構いませんが、他人に「こんな風になりませんか!」と誘うならば、です。
私 なんどが言えることは、「地獄へ堕ちてもともとの つまらん人間」の私に差し伸ばされた御手が、ただただ勿体なく 足取り覚束なく引かれて行くだけです。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ......
龍教様より)
大変、高名な方々に対して 某が愚言を伝えむこと、まこと恐れ多いことではございますが、それを承知の上で述べさせていただきますと
まず、阿部師は「行住座臥」の四種を古から伝えられている「四種三昧」として述べられたのではと味あわせていただきました。しかしながら次句にて何の断りもなく「四種三昧」と入れますと、藤澤師が言及されています通り「念仏のほかに信心があるように受け取られてしまう」となります。尤も真宗・浄土宗 場合によっては時宗や融通念仏宗などは「念仏三昧」を主をする教えでありましょう。無理に「四種三昧」なんど使わなくとも「念仏三昧」でよろしいのでは と述べさせていただきたく存じます。
法然房源空『和語灯録』にいはく、
「往生の業は、これ称名といふ事、釈文分明也。有智・無智をきらはずといふ事、しかれば、往生のためには称名足ぬとす。学問をこのまんとおもはんよりは、たた一向念仏して往生をとぐへし。弥陀・観音・勢至にあひたてまつらん時、いづれの法文か達せざらん。かのくにの荘厳、昼夜朝暮に甚深の法門をとく也。念仏往生のむねをしらざらん程は、これを学すべし。もしこれをしりなば、いくばくならざる智恵をもとめて、称名のいとまをさまたぐべからず。」と{云々}
なもあみだ、なもあみだ