十劫安心 ☆ミ

私には南無阿弥陀仏より他にたよりになるものはありません。だから涙して本日これを記します。どうか 浄土真宗の ご法義に、いまこそ 皆さんがいつも望まれていた真摯な取り組みをなさってください。南無阿弥陀仏を精一杯 称えましょう。私の念仏はなんの役にも立たないが、阿弥陀様を讃えましょう。

 

以下は、恵日会のホームページより

○信心を頂いて救われようとか念仏して助かろうとかではなく、本願が成就しているので救われているという事、本願成就を明かしたのが教行信証という書物である。(本願寺派 補教 阿部信幾氏)

東京恵日会・埼玉恵日会・御本典恵日会 – 浄土真宗本願寺派 超光寺

 

 

これを「十劫安心」と言います。☆。.:*・゜

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 

 

以下十劫安心 ☆ミ - 夕顔の日記コメント欄より引用

龍敎房 (Abc) (id:ryukyo)

>本願が成就しているので救われているという事

さて、これである。これは夕顔さん自身が言われるように「十劫安心」という異安心になる。
阿弥陀さまは、「南無不可思議光仏 饒王仏のみもとにて 十方浄土のなかよりぞ 本願選択摂取する」として様々な教えの中から「南無阿弥陀仏称名念仏、称名正定業)」の本願を「選択摂取」されました。

私が前に伝えたが「阿弥陀さまは南無阿弥陀仏を成就されました、よかったですね」という「本の中だけの世界」では、「摂取の大益」も「選擇本願」も「本の中の世界」になるでしょう。
しかし、「南無阿弥陀仏」は「本の世界」だけではないのです。確かにさきに「真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」と「真実の本は『大本』です」とは伝えられていますが、この「南無阿弥陀仏」は「口称の義」とも説かれます。

安居院法印聖覚『唯信抄』
 「本願の文をのべたまふに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)といへり。十声といへるは口称の義をあらはさんとなり。」

この「義」は、「私たちの計らい」ではなくて「阿弥陀さまの御称計(お計らい)」なのですから、「阿弥陀さまが衆生に「称えてくれ」と願われている」のです。『礼讃』にて「十方衆生 称我名号」とあるのがそれです。

親鸞聖人は『唯信抄』の解説書である『唯信鈔文意』をつくられて
 「「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。」として「とこゑまでの衆生みな往生す」と伝えられています。
以上の事から
  聖覚法印は「十声といへるは口称の義をあらはさんとなり」
  親鸞聖人は「とこゑまでの衆生みな往生す」と伝えられていることでしょう。

  阿部補教のように「本願が成就しているので(なにもしなくても)救われている」ではありません。

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なもあみだ、なもあみだ
 龍教