真宗聖教について (龍教房 専修寺様)からの大切なお話と原典にあたる姿勢

☆。.:*・゜☆。.:*・゜龍教房様のblog内容引用

『大経』巻下 について ~聖人の著作よりうかがう~

お久しぶりです、龍教房です。

 

あまり更新されなさ過ぎて、蜘蛛の巣などは貼っていますがそれを取り除く意も込めて更新させていただきます。

 

と言いますのも、

 

伊藤康善著『安心調べ』P142~P143

大経には称南無阿弥陀仏の文は一ヶ所もない。願成就にも称名はない。

 

等と言われているようですので、「大経には南無阿弥陀仏の文しかない」と説かせていただく久々の更新となります。

 

『大経』巻下

 「仏、阿難に告げたまはく、

「それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。

十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く」と。{乃至云々}」

 

親鸞聖人『如来二種廻向文』

 「{前略}往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願、『大無量寿経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」[文]

 真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」[文]

 真実証果といふは、必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。証果の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」[文]

 これらの本誓悲願を、選択本願と申すなり。

 この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。{乃至云々}」

 

『大経』での「それ衆生ありてかの国に生るるもの、みなことごとく正定の聚に住す」は、『第十一成就文』と呼ばれるものであるから、『二種廻向』での「真実証果」にあたる。また、「真実証果」なのだから、『第四巻』(『証文類』)のいわれであることは言うまでもない。

 

同じ論法にて、

無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ」ー「真実の行業」ー『第二巻』(『行文類』)

「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。」ー「真実信心」ー『第三巻』(『信文類』本末)

 

と示すことが出来よう。ここで『第一巻』(『教文類』)がないが、

『第一巻』は「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」なのであるから、「弥陀四十八の誓い」つまり『大経』巻上にあたる。

 

さて、続けようか。

『大経』

 「{前略}無量寿仏の威神極まりなし。十方世界の無量無辺不可思議の諸仏如来、かれを称歎せざることなし。

東方恒沙仏国の無量無数の諸菩薩衆、みなことごとく無量寿仏の所に往詣して、恭敬し供養して、もろもろの菩薩・声聞の大衆に及ぼさん。経法を聴受し、道化を宣布す。{乃至云々}」

親鸞聖人『正信念仏偈』(『第二巻』巻末偈文)

 「{前略}

 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓

 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方

 {乃至云々}」

場合によっては、この直後の「普放無量無辺光 ー」のくだりも記すこともあるが、いづれも「かれ(二字:彼の如来)を称歎せざることなし」のいわれである。

 

『大経』

 「{前略}慧日、世間を照らして、生死の雲を消除したまふ{乃至云々}」

親鸞聖人『顕浄土真実教行証文類 序』(『総序』)

 「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。{乃至云々}」

親鸞聖人『正信念仏偈』(『第二巻』巻末偈文)

 「{前略}

 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

 {乃至云々}」

親鸞聖人『第三』本(『信文類』本)

 「{前略}『論の註』(下 一〇三)にいはく、「〈かの如来の名を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲ふがゆゑに〉(浄土論)といへり。

〈称彼如来名〉といふは、いはく無碍光如来の名を称するなり。
〈如彼如来明智相〉といふは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日月珠光のただ室穴のうちの闇を破するがごときにはあらざるなり。{乃至云々}」

 

『大経』にて「慧日、生死の雲を消除したまふ」とされているところを「無明の闇を破する恵日」「よく十方衆生の無明の黒闇を除く」と親鸞聖人は表現されている。または「即横超截五悪趣(すなはち、横さまに五悪趣(六道)を截つ(たつ:断つに同じ))」ともされている。

 

『大経』

 「菩薩、至願を興して、おのれが国も異なることなからんと願ふ。
あまねく一切を度せんと念じ、名、顕れて十方に達せん。
億の如来に奉事するに、飛化してもろもろの刹に遍じ、恭敬し歓喜して去り、還りて安養国に到る。」

親鸞聖人『浄土和讃

 「浄土の大菩提心は 願作仏心をすすめしむ
 すなはち願作仏心を 度衆生心となづけたり」

 

「菩薩、至願を興して、おのれが国も異なることなからんと願ふ。」のいわれは、「世尊我一心、帰命尽十方無碍光如来、願生安楽国」(天親菩薩『願生偈』廻向文)なども思わせていただくように、この「おのれが国も異なることなからんと願ふ」ということも「南無阿弥陀仏」のいわれである。これは、三心の一つ「廻向発願心」にあたる。

 

『大経』

 「{前略}かの仏国に生るるもろもろの菩薩等は、{乃至}彼なく我なく、競なく訟なし。もろもろの衆生において大慈悲饒益の心を得たり。柔軟調伏にして忿恨の心なく、離蓋清浄にして厭怠の心なし。等心・勝心・深心・定心、愛法・楽法・喜法の心のみなり。もろもろの煩悩を滅して悪趣の心を離る。{乃至云々}」

 

大慈悲饒益の心を得」というのは、平たく言うと「南無阿弥陀仏」である。「南無阿弥陀仏の法」によって「南無阿弥陀仏」を得るのは至極当然であり、「大慈悲=阿弥陀」「饒益=他を利益(教化利益)する」のいわれで「阿弥陀(の法)を以て他を教化利益することを得」といういわれである。「自信教人信」の「教人信」にあたる。

また、「悪趣の心を離る」は、先の「即横超截五悪趣」である。委しくは見返していただきたい。

 

『大経』の「なほ、~~のごとし」は、『第二』の「なほ、~~のごとし」を思い起こされるが、どちらも「「南無阿弥陀仏」のいわれをたとえられたもの」である。よくよくお読みいただきたい。「慧日を曜かし、痴闇を除く」(『大経』)も先の「よく十方衆生の無明の黒闇を除く」(親鸞聖人)のいわれである。

 

『大経』

 「{前略}因力・縁力・意力・願力・方便の力・常力・善力・定力・慧力・多聞の力、施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧の力、正念・正観・もろもろの通明の力、法のごとくもろもろの衆生を調伏する力、かくのごときらの力、一切具足せり。{乃至云々}」

 

このいわれは、「称ー南無阿弥陀仏の法(称仏名の法)」には、「かくのごときらの力、一切具足せり」のいわれである。どこかの団体は、「1,聴聞 2,おつとめ 3,六度万行」などと順位をつけているが、「聴聞法話)」とは、「称ー南無阿弥陀仏」のいわれをたづねさせていただく縁なのですから、「称ー南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏称えさせていただくこと)」つまり「念仏成仏」が「真宗」をされるのです。

 

親鸞聖人『浄土和讃

 「念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ」

 

『大経』

 「{前略}われなんぢら天・人の類を哀れみて、苦心に誨喩し、教へて善を修せしむ。器に随ひて開導し、経法を授与するに承用せざることなし。意の所願にありてみな道を得しむ。{乃至云々}」

親鸞聖人『第二』(『行文類』)

 「ここをもつて『論の註』(論註下 一二〇)にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。」

 

 「意の所願にありてみな道を得しむ。」=「同一に念仏して別の道なきがゆゑに」にあたる。「意の所願」を「仏意」ともいわれるが如く、「南無阿弥陀仏のいわれを心苦しく(何とか伝えようと)喩えを用いて、誨へ(をしへ:教え 教誨 におなじ)ている」とされる。直後、「善を修せしむ」と「修善」の文字があるが、親鸞聖人が伝えられている「同一念仏無別道故」が「教え」ののであるから、「称ー南無阿弥陀仏」となりそれが、「往相廻向」のいわれになるのである。

 

『大経』

 「{前略}そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。

もし衆生ありて、あきらかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝の華中において自然に化生し、跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん。{乃至云々}」

親鸞聖人『第六巻』

 「また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。{乃至}(『無量寿如来会』にいはく)仏、弥勒に告げたまはく、〈かくのごとし、かくのごとし。もし疑悔に随ひて、もろもろの善根を種ゑて、仏智乃至広大智を希求することあらん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。仏の名を聞くによりて信心を起すがゆゑに、かの国に生ずといへども、蓮華のうちにして出現することを得ず。かれらの衆生、華胎のうちに処すること、なほ園苑宮殿の想のごとしと。{乃至云々}」

親鸞聖人『正像末法和讃』

 「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる」

 

そのように顕わされ、その解決策として、

親鸞聖人『第六巻』本

「{前略}しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。{乃至云々}」

 

と説かれ、

親鸞聖人『唯信抄文意』

 「{前略}

ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応無量寿」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応」はとなふべしとなり。

 「具足十念 称南無無量寿 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。{乃至云々}」

伝・唯円御房『歎異抄』1

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり
と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと」

 

『大経』

 「{前略}もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道においてつひに退転せず。このゆゑにまさに専心に信受し、持誦し、説行すべし{乃至云々}」

親鸞聖人『第二巻』(『行文類』)

 「{前略}いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品 一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。{乃至云々}」

 

『大経』での「まさに専心に信受し、持誦し、説行すべし」は、『第二』では「仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。」とされている。どちらも「南無阿弥陀仏をつのりとし、南無阿弥陀仏を称えよ」であることは、いうまでもない。

 

源空聖人『擇集』にいはく、

 「{前略}南無阿弥陀仏[往生の業には、念仏を先(本)となす。]{乃至}

 ゆゑに知りぬ、念仏また九品に通ずべしといふことを。二には『観経』の意、初め広く定散の行を説きて、あまねく衆機に逗ず。後には定散二善を廃して、念仏一行に帰す。いはゆる「汝好持是語」等の文これなり。その義下につぶさに述ぶるがごとし。ゆゑに知りぬ、九品の行はただ念仏にありといふことを。{乃至云々}」

 

また、親鸞聖人『銘文』にいはく、

 「{前略}『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。{乃至云々}」

 

長文、失礼。

なもあみだ、なもあみだ

 龍教房