✩.*˚真宗高田派様からの言の葉✩.*˚

宿善 について 真宗高田派さんからのお返事が届けられています。

✩.*˚読ませて頂いて、分からない所があれば質問してみましょう✩.*˚

命題:親鸞聖人は「宿善」についてどのように述べられているか。
結論:親鸞聖人は「宿善」について述べられていない。

命題2:親鸞聖人は、「修善」つまり、「善をせよ」といわれているのか。
結論2:親鸞聖人は、「善である」と判断することも「悪である」と判断することも「自力」にあたるので、「なほ義のあるなるなり。」と述べられている。

命題3:親鸞聖人は、「念仏」つまり、「称名 無礙光如来(無礙光如来の名(ミナ)を称える)」をどう述べられているか、『お聖教』を引いて示せ。
前提3:「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。」(『第二』)

結論3:「 智栄と申すは、震旦(中国)の聖人なり。善導の別徳をほめたまうていはく、「善導は阿弥陀仏の化身なり」とのたまへり。
「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。
「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。
また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。
「即発願回向」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり、
また一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり。
「一切善根荘厳浄土」といふは、阿弥陀の三字に一切善根ををさめたまへるゆゑに、名号をとなふるはすなはち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと。智栄禅師、善導をほめたまへるなり。」(『銘文』)

「『宝号経』にのたまはく、「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」。名号はこれ善なり行なり、行といふは善をするについていふことばなり。本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。」(『御消息』)

「他力とは、如来の本願力なり。」(『第二』)
「仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。しかれば、義なきを義とすと候ふなり。義と申すことは自力のひとのはからひを申すなり。」(『御消息』)

 

ここで「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」後に、「本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行にあらざるなり。」といわれており、「念仏は、善にあらず行にあらざる」と『お手紙』にいわれています。

同様の文は、「念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なり」の『歎異抄』第八