☆。.:*・゜徒然なるままに 差別心は煩悩ではない?☆。.:*・゜

近頃、差別心というのは「煩悩では無い」という僧侶様の発言を聞きました。「差別心は煩悩ではない、自力心である。その証拠に親鸞様も蓮如上人も差別心が無い」

 

いやいやいや、ちょっと待って下さいな、いくら何でも僧侶様が間違った事を言って良いのですか?

 

この誇妄分別しかない我々が、今己が作り出して見えている個々人の世界に「差別心が無い」というのは浄土真宗の僧侶様としては、あまりにお粗末な事になります。それならば布施されたものはお返しになられたら良い。話を間違えた挙句、布施を頂く等おかしいではありませんか。

 

そのように「自分はご信心を頂戴したから差別心が無いのだ」こういう方は、そのご信心なるものが間違っているという事です。何かを頂いたのが信心かと言われたら違うと言わなければならないし、何も無いと分別したなら、それも違う。

 

また「法蔵菩薩様の本願が成就していて良かったですね。私からはなーんにも心配することはありません。良かったですね」と、言う方がある。あなたの事は知ったこっちゃありません。

 

他人に向かってもし本願が成就していて貴方は良かったですねと言える人がいたならば、法蔵菩薩様のご修行を舐めているという事なのでしょうね。

私という人間は本願が成就しているから助かっている等と言える者であろうか?ならば、法蔵菩薩様の血を流す(この程度ではない、人間には微塵も想像できない)ご修行は要らないのです。私の代わりに法蔵菩薩様がご修行なさるという事は、どれほどの無惨な、むごたらしい事をさせているのか少しでも僅か1mmでも思いを馳せた事があられるのだろうか。

 

呑気に、「あー、借金がチャラになる程の喜び、良かった良かった」「本願成就しているから心配ない 何にも要らない お師匠様が認めてくれた バンザーイ」ちょっと、頭がどうかしてるんじゃないの?挙句に信心決定したのだ、助かったのだ とまで吹聴し出す。それはそれは特殊な団体で待ちに待った信心、信心というパワーワードですから天にも登る嬉しさでしょう。やった!ついにやった!(称名念仏は「かしこ」か「敬具」程度)念仏は、時頃の挨拶では無いですよ。

 

「差別心が煩悩だというような師匠に認められた信心」とは、それは一体全体なんなのかと思い、ここに記すものです。ありもしない信心を信心と思い込み吹聴するのはやめていただきたい。同じ浄土真宗の土俵にあられると思うからこそ記すものですが、実際問題として浄土真宗ではないと判断するべき内容です。また他を批難する事を嫌う方には(その気持ちは重々分かります)批難は同じ土俵にあると主張されている場合、と記しておきます。

 

あってはならないのは我が宗派だけが正しいとする独善です。余行に対しては、論旨からずれるのでこの記事にクドクドは記しません。

 

「本願が成就しているから助かっているのだ 気づいて無いだけだ」これを十劫安心  

 

「差別心は煩悩では無い」これは、僧侶として法を説くならば、もう一度 宗門高の1年生からやり直すべき。

 

宗門高出身の我が子のひとりは差別心は「分別智」である、とサラリと言っていた事を付け足しておきます。

 

信心、信心と、自分が想い描く信心は、すべて偽物です。これが信心だ、と思うなら今1度その「ありもしない信心」を見つめてみるべきであろう。

 

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ........

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※(信心の社会性という話題には今回は触れません。この様な話は記事の主張とは違います)