高森親鸞会もそうですが、「称 南無阿弥陀仏は無い」と言われる恵日会は、下記原典(釋林遊さん提供)のものから、称南無阿弥陀仏は無いという箇所を出してください。
✩.*˚アラ、行シヤスノ名号ヤ✩.*˚
確認しましたが、20ページ目に「アラ、行シヤスノ名号ヤ」(『御文』引用でしょうか)があるので「称南無阿弥陀仏がある」といえましょう(龍教さん検閲済)
(林遊さんより)
また以下の書籍を阿部師は勧めておられますが、新作領解文の抗争の最中に書かれたものは、著しく偏るので採用はしない方が将来の為になります。
今回の「令和の領解文騒動」との関係で注目を集めているそうですね。ともあれ論争の書物は教義の一端を強調するから読むときには注意が必要だと梯實圓和上は仰っておられました。ですから林遊は買いません、
阿部信幾さんは、
◎「阿弥陀さまは 念仏称えよと おっしゃっていない」とおっしゃったことについて。
無量寿経が、「十八願を説いているんだという説」に座るのか、「本願成就文が無量寿経の中心、成就が無量寿経の中心という説」に座るのかが、この議論なんです。で、これは 私たち本願寺派の坊さんの中でも、ほとんどが 十八願が中心だと言ってます。無量寿経という お経は、十八願を説いたお経だと言ってる。そこが違うんです。
私は、「無量寿経っていうお経は、十八願成就が中心です、成就が抜けたら、浄土真宗じゃないんです」という説です。ところが、本願寺派の勧学和上も、仏説無量寿経は 十八願を説いたお経です、と言っている。ただ、唯一 、江戸時代の和上だけど、大瀛和上だけが、唯一、成就文が中心だと言っているんです。
といいますが、「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」(一人がいいかげんなことを言うと、世間の多くの人はそれを真実のこととして広めてしまうということのたとえ)とありますが、困ったものです。
御開山は、
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
とされたように、浄土真宗の《大綱》は「行信」です。梯實圓和上は、行のない信は観念の遊戯であり、信のない行は不安の叫びである、と仰っていたものです。
御開山は関東の門弟への消息(手紙)で、
四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。{後略}
と、行信不離と仰っています。
「行信不離」
なお、阿部信幾さんは『選択集』を読んでいないかもです。『般舟三昧経』には、阿弥陀仏自身が、「阿弥陀仏自ら「当(常)念我名」(まさに(常に) わが名を念ずべし。)」と名号を選択されているのですが……。
「八選択の釈意」
「仏説般舟三昧経」
✩.*˚夕顔の愚考ですが、
高森親鸞会を辞めたばかりの方々は(大変失礼ですが)自分の当たり前だと思う思考が本当に正解なのか、検証すべきと思います。
また、高森親鸞会で、相当のご法義が分かっていると思うのは間違いです。
辞めたからこそ、堂々と、書籍や原典を好きなだけ読んでみてください。
何もかも及ばない事が分かりますから。
及ばない と思えたら初めて 改めて学ぼうと思えます。