称南無阿弥陀仏は無い という念仏嫌いの困ったちゃんへ

(以下の文章を考察します。高森親鸞会でよく使われますね)

······▸・‥…━━━☞法然上人が、称名正因(念仏さえ称えていれば助けて頂けるという考え)が弥陀の本願であるかのように教えられたのは、観無量寿経で説かれる下々品の往生に腰を据えて、大無量寿経の本願文を見られたからなのですね。それは、諸行に対して念仏易行を説かれたもので、これを「行々相対の法門」と言います。

しかし、親鸞聖人がその念仏為本より信心為本を打ち出されたのは、大無量寿経そのものに据わって、本願成就文(釈迦が弥陀の本願を解説されたもの)から本願文を見られたからなのですね。

無量寿経には「称南無阿弥陀仏」の御文は一カ所もないとされます。本願成就文には、称名念仏は誓われてなく、信一念で往生出来ると説かれています。

この本願成就文から弥陀の本願をみると、絶対に信心正因になるのですね。

 

······▸・‥…━━━☞考察文 親鸞会によくある考え方です。
行行相対は、法然上人よりも親鸞聖人の方が激しい箇所があります。行巻です。
諸善対して念仏が桁違いに優れていることを説明されるのは当たり前で、いつも言いますように、聖道門が見下す念仏の行から念仏の信を別に取り出されて解説されたのが信巻です。
成就文の扱いは信巻では一部に留まっていますし、成就文の「一念」には行と信の二義あると存覚上人が浄土真要鈔で教えられている通りです。
親鸞聖人も成就文の「一念」を行と信の二義で説明されています。✩.*˚という事で、成就文には行一念 称南無阿弥陀仏は無いというのは おかしいですね。