☆。.:*・゜稲城選恵和上のお言葉☆。.:*・゜

南無阿弥陀仏は信心の証拠」といい得る理由☆。.:*・゜ちょっと微妙ですけどね。

稲城和上のご発言から理解出来るとしたら以下の解釈になります。

ですから、与えられたそのままと言うんですね。これを間違うたらあかんのですよ。今日は曇っとるいうたら、曇っとるんが間違いないんじゃろ。違いますかいね。曇っとると思うとるんが間違いないのか、曇っとるんが間違いないのか、どっちかね。信心というたら、たいてい思っとるという事に力が入るね。これ、自力の信という事です。思うとるんが間違いないのと違うんでしょうが。曇っとるんが間違いないんですね。

ですから、間違いない法に遇わしてもらうという事です。何故か言うたらね、蓮如さんはね、よく証拠という言葉を使うておいでになる。 証拠という。これは、『御一代聞書』の中に何回も出ます。で、四帖目の八通の「御文章」にも、「されば南無阿弥陀仏ともうす体は、われらの往生の定まりたる証拠」と、こう書いてありますね「注8]。 これ、「さだまりたる証拠」というてありますね。

ですから、聞いて解決するんでなしに、解決の出来ている法、これ本願成就という事ですからね、それが何時でも・何処でも・誰にでも、ちゃんと届けられとるんですからね、それを聞かしてもらうんです。ですから、お聞かせにあずかったそのままと言う事、これが他力の信という事ですね。

こっちの聞いたものが間違いないんじゃのうて、聞えた法が間違いない。その間違いのない六字の法を聞かせていただくんです。ですからね、大丈夫になろうとかかるんじゃなく、大丈夫の法を聞くんです。聞いて大丈夫になるんじゃない。それを皆、大丈夫になろうとかかるから、こっちの方に力が入るんです。そう言う事がね、第一番目の特色ですね。(他力の信の特色 - Book稲城選恵和上)

 

よう聞いたら助かるいうたら、助かる事を予想して聞いとるんですからね、聞いたら仏さんがやってくる事になるね。それで、信じたら助かる、祈ったら助かる、皆こう両方が向い合せになっとる。こういう関係を対応的というんです。こういうのは、仏法ではないんです。そこでね、逆対応というたらどうかというと、わしの側では、救いの法に背を向けとるんです。ところが、仏さんの方からは、逃げとるわしのところまで、何時でも先に来て下さっとるという、この関係が逆対応いうことなんです。

 それはね、「阿弥陀」というのに二つの意味がございましてね、「光明無量・寿命無量で阿弥陀」と、こう『阿弥陀経』はなってますね。ところが、『観経』の「真身観」の「光明遍照十方世界・念仏衆生撮取不捨」と言うのは、あれ阿弥陀と言う事ですからね。それを善導大師はね、『往生礼讃』に一つにされましてね、それを御開山聖人が御和讃にされていますね。その「阿弥陀経和讃」に、

「十方徴塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる」
他力の信の特色 - Book稲城選恵和上)

 

こちら側から、信心の証拠が欲しいと思って、(このように言われた僧侶がありますが)そこで、

南無阿弥陀仏は信心の証拠」

と、言い出したら、どうでしょう。これ以外に信心の証拠はありません!と。

「私が証拠が欲しいと思うから、家の掛けてある南無阿弥陀仏の名号が有るであろう。証拠を既に持っておる。どうや証拠があるから、私は信心の人だ」

こうなると、ひとつも、稲城和上の話を聞いていないことになりはしませんかね。