龍教房(専修寺派様)からの言の葉

☆。.:*・゜

なにが「『大無量寿経』には称南無阿弥陀仏の文は一ヶ所もない。」ですか、心穏やかにいられない私をどうかお許しください。

『大経』巻上
 「{前略}一切の法を学して貫綜縷練す。所住安諦にして化を致さざることなし。無数の仏土にみなことごとくあまねく現ず。いまだかつて慢恣せず。衆生を愍傷す。 かくのごときの法、一切具足せり。菩薩の経典、要妙を究暢し、名称あまねく至りて十方を導御す。無量の諸仏、ことごとくともに護念したまふ。仏の所住には、みなすでに住することを得たり。大聖の所立は、しかもみなすでに立す。{云々}」

→「いまだかつて慢恣せず。衆生を愍傷す。 かくのごときの法、一切具足せり。」
 未だ曾て思い上がることをされず、衆生を憐れみられました(愍傷す=憐愍す)。「その法」は、総てを具足しています。

→「名称あまねく至りて十方を導御す。無量の諸仏、ことごとくともに護念したまふ。」
 ⇒諸仏称揚のいわれ(17のいわれ 真実の行業のいわれ とも)
  「諸仏護念の益」というのも17願の別名にあたる。

  ↓  ↓  ↓

そのため『浄土和讃』には、
 南無阿弥陀仏をとなふれば 観音・勢至はもろともに
 恒沙塵数の菩薩と かげのごとくに身にそへり

または、『正信偈』では、
 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方

と顕わされている。

『第二』には次のようにも顕わされている。
 「{前略}また『観経』にいふがごとし。〈もし阿弥陀仏を称し礼念してかの国に往生せんと願へば、かの仏すなはち無数の化仏、無数の化観音・勢至菩薩を遣はして、行者を護念したまふ。また前の二十五菩薩等と百重千重行者を囲繞して、行住座臥、一切時処、もしは昼、もしは夜を問はず、つねに行者を離れたまはず〉と。いますでにこの勝益まします、憑むべし。願はくはもろもろの行者、おのおの至心を須ゐて往くことを求めよ。 また『無量寿経』にいふがごとし。〈もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得と。

また『弥陀経』にいふがごとし。〈もし衆生ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、すなはち名号を執持すべし。もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれ。命終らんとするとき、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せず。すなはちかの国に往生することを得ん〉と。仏、舎利弗に告げたまはく、〈われこの利を見るがゆゑにこの言を説く。もし衆生ありてこの説を聞かんものは、まさに願を発し、かの国に生ぜんと願ずべし〉と。次下に説きていはく、〈東方の如恒河沙等の諸仏、南西北方および上下一々の方に恒河沙等の諸仏のごとき、おのおの本国にしてその舌相を出して、あまねく三千大千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、《なんだち衆生、みなこの一切諸仏の護念したまふところの経を信ずべし》と。いかんが護念と名づくると。もし衆生ありて、阿弥陀仏を称念せんこと、もしは七日、一日、下至一声、乃至十声一念等に及ぶまで、かならず往生を得と。この事を証誠せるがゆゑに護念経と名づく〉と。次下の文にいはく、〈もし仏を称して往生するものは、つねに六方恒河沙等の諸仏のために護念せらる。ゆゑに護念経と名づく〉と。いますでにこの増上の誓願います、憑むべし。もろもろの仏子等、なんぞ意を励まして去かざらんや」と。[智昇法師の『集諸経礼懺儀』の下巻は善導和尚の『礼讃』なり。これによる。]{乃至云々}」

まず、『観経』の箇所は『浄土和讃』に言われている内容に同じく、次に『大経』を引いて「十方の衆生、わが名号を称せん」と「第十八願取意の文」を用いられている。

<参照:若我成仏… WikiArc>
 http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%8B%A5%E6%88%91%E6%88%90%E4%BB%8F%E2%80%A6

次いで、『小経』を引かれて、「もし衆生ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、すなはち名号を執持すべし。」とされている。この「名号を執持すべし(名号執持 とも)」も真宗では大変重要な語句であり、

『浄土高僧和讃』龍樹讃 では、
 不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし

このように言われている「執持して 執持すべし」である。この2つの文からも
「名号を執持すべし = 恭敬の心に執持して」という関係性であるから、「名号 = 恭敬の心」とされよう。(余談だが、「大行=名号」とされる所行の方は、「名号 = 恭敬の心」から説を立てられることもある。もちろん、その論は間違ってはいないが、「恭敬の心」を重きにして「弥陀の名号称すべし」を軽んじられることが、「所行の方の問題点」とでもいえましょうか。

少し話がズレましたね。

「いかんが護念と名づくると。もし衆生ありて、阿弥陀仏を称念せんこと、もしは七日、一日、下至一声、乃至十声一念等に及ぶまで、かならず往生を得と。」
(どのようなものを(諸仏が)「護念する」と宣言(名づくる:宣言する)されているのでしょうか、もし衆生がいて もしは七日、一日、下至一声、乃至十声一念等に及ぶまで 阿弥陀仏を称念するならば、かならず往生を得る(様に護念する)と(されています)。)

この「第十八願取意の文」というのは、
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。」という「第18の誓い」の意なのですから、

源空聖人『選擇集』での
 「諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。{乃至}
 同経の『疏』(散善義)にいはく、「〈仏告阿難汝好持是語〉といふより以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と。{乃至}

「仏の本願に望む」といふは、『双巻経』(大経)の四十八願のなかの第十八の願を指す。{乃至云々}」

なのですから、「善導大師や法然上人が称名本願を説かれ」(『会報第五集』書き出し)、「『双巻経』(大経)の四十八願のなかの第十八の願」(『選擇集』)である「恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」(『浄土高僧和讃』)であり、これを「仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」(『観経四帖疏 散善義』)とも顕わされるのである。

よって、「『大無量寿経』には称南無阿弥陀仏の文は一ヶ所もない。願成就文にも称名はない。」などというのは、言語道断であろう。「衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむる」こそ正解であり正意であり正業、正行といわれるのである。

『第三(本)』
 「もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。」

なもあみだ、なもあみだ
 Abc