如何ようにあらわしましょうか

浄土真宗親鸞会犠牲者様へ

 

お世話になっております、Abcです。 如何ようにあらわしましょうか、「すごいですね」としか言えません。 さて、この「犠牲者」はこのようにも言われています。 「本願成就文を聴聞して、本願を信じて念仏すれば救われるのであれば、それは自力が間に合って救われるという事になります。善知識は自力の終着駅の崖っぷちまで案内して突き落とす事は出来ますが、助けるのは阿弥陀仏の仕事だという事を忘れないで下さい。」 まず、「善知識」は「崖っぷちまで案内して突き落とす」という事はしません。 「如来阿弥陀)の御代官」ともいわれる「僧侶(修行僧)・布教使(弘宣(布教)する方)・能化(古くの「布教使」のいわれ)」などが、仮に「崖っぷちまで案内して突き落とす」ならば、「阿弥陀という仏は、衆生を崖っぷちまで案内して突き落とす仏だ」などと言われても、何の文句も言えません。 それはあたかも、「万病の妙薬を作られた方」に対して「毒を配り歩いているものがいる」と伝えることが「善知識」だと言われるようなものです。 抑、「崖っぷちまで案内して突き落とす」と言い出したのは高森会長なのですから、高森会長一人が「天魔などになる」という結びで本来はいいはずです。 『行巻』には、「南無阿弥陀仏」を「善知識の如し」と言われている箇所がございます。 『行巻』  「{前略} 善知識のごとし、一切生死の縛(いっさいしょうじ の ばく)を解くがゆゑに。  なほ導師のごとし、よく凡夫出要の道(ぼんぶしゅっよう の どう)を知らしむるがゆゑに。  なほ涌泉のごとし、智慧(ちえ)の水を出(いだ)して窮尽(きゅうじん)することなきがゆゑに。  なほ蓮華のごとし、一切のもろもろの罪垢(ざいく(ざいこ))に染(せん)せられざるがゆゑに。  なほ疾風のごとし、よく一切諸障の霧(いっさいしょじょう の む(きり))を散ずるがゆゑに。  なほ好蜜のごとし、一切功徳の味はひを円満せるがゆゑに。  なほ正道のごとし、もろもろの群生をして智城(ちじょう)に入らしむるがゆゑに。  なほ磁石のごとし、本願の因(ほんがん の いん)を吸ふがゆゑに。  {乃至云々}」 『行巻』のこの箇所を引くと  「弘誓一乗海は、無碍無辺最勝深妙不可説不可称不可思議の至徳を成就したまへり。なにをもつてのゆゑに。誓願不可思議なるがゆゑに。 悲願はたとへば、善知識のごとし、一切生死の縛(いっさいしょうじ の ばく)を解くがゆゑに。」 なのですから、「南無阿弥陀仏は、一切生死の縛を解く」となります。 しかし高森は、「南無阿弥陀仏は、一切生死の縛で縛る」と伝えているのです。 「縛を解く」と「縛で縛る」は、「対義語」にあたりますから、「どちらかが正ならば、どちらかは、、、」という具合です。 さて、彼が「自力が間に合って救われる = 本願成就文を聴聞して、本願を信じて念仏すれば救われる」と釈していますが、 『歎異抄』第一には、「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」とございます。 この前半「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり」が「南無阿弥陀仏(名号)」であり「誓願(本願)」であるのですから、  「<本願>と(を)信じて念仏申さんとおもひたつこころ」となります。また、『本願成就文』は「本願を説かれた文」なのですから、「{本願成就文を聴聞して}<本願>と(を)信じて念仏申さんとおもひたつこころ」のうち{}は、修飾語({}は、<>に掛かっている)と見ることが出来ます。これは、「帰命無碍光如来」と記すか「帰命尽十方無碍光如来」と記すかの差でしかありません。 つまり、「自力が間に合って救われる = 南無阿弥陀仏」という結びに(彼の中では)なるらしいのですが、仰るように 『改邪鈔』  「いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位、滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。」 →「かの仏因にひかれてうる」は、先の「なほ磁石のごとし、本願の因(ほんがん の いん)を吸ふがゆゑに。」につながる。(「吸引」と書かれるように、「引かれる(牽かれる)」と「吸う」は同意である。) なのですから、「自力が間に合って救われる = 他力」という大穴に陥ります。 親鸞聖人は「大聖、これを義なきを義とすとあらはせり。乃至、この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるべし。 これは仏智の不思議にてあるなり。」との懇ろの仰せです。 なもあみだ、なもあみだ  Abc(龍教)