疑心往生 は黒闇にて彷徨うことと同義です、もっというならば「なほ義のあるなるべし」でしょうか(龍教様)
阿弥陀様は無分別の仏様だから、分別と煩悩しか無い私を本願を疑うひとも、救われたという人も平等にすくうという義をとなえた人 これを疑心往生の義を主張した、となります。
「なほ義のあるなるべし」とはこれは如何に。
本当に寂しいお話で御座います。
願わくば
「本願を信じ念仏申さば仏になる」
という御開山聖人の教えられた通りに聞いていきましょう。
(涙のお願い 人生は迷えるほどに長くは無いのですから)