宿善 ✩.*˚真宗高田派さんからの言の葉

お世話になっております、Abcです。 『蓮如上人御一代記聞書』末 二三三 「一、蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし、御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。」 「めでたい」も「ありがたい」も共に「滅多にない事だ」を言われる語句ではありますが、 めでたい:愛で甚い、目出度い(目出鯛) は、  愛でる や 目出(秀でている)など「衆生の計らい」をもって、「弥陀の大願」をいただいているいわれ になりますから、聖人が伝えるところ「これより後、自然を沙汰せば、なほ義のあるになるべし」であり、「如来の不思議なり」のいわれに乖くこととなりましょう。 対し、 ありがたい:有難い は  「衆生の計らい」にありがたきいわれ である「弥陀の大願」をいただいているいわれ になりますから、蓮如上人は、「宿善めでたし」ではなく、「宿善ありがたし」と伝えなさいと御勧化されました。 さて、私事ではありますが、高田派上人が一人 堯秀上人は次のように伝えられています。 堯秀上人『御書』巻第四 第拾壱  「倩、世間ノ転変ヲ観スレハ哀傷ノ泪袖ニ余レリ。シツカニ此身ノ浮生ヲオモヘハ憂懐ノカナシミ肝ニ銘ス。 然レハ経ニ、一切有為ノ法ハ夢幻ノコトシトイヘリ。四季転変ノ消息(アリサマ)生住異滅(シャウチュイメチ)ノ道理(コトハリ)マコト有情モ非情モカハルトコロナシ。 春ノ朝(アシタ)ニ華ヲ翫(モテアソヒ)シ人モ、夕(ユフヘ)ニハ北芒ノ風ニ散、秋ノ夕ニ月ヲ伴ヒシ輩モ暁ニハ東岱ノ雲ニカクレヌ。アヽ悲哉(カナ)人ノ世ニアリテモトムルトコロノ意ノコトクナラズ樹(ウエキ)シツカナラムトスレトモ風ナホトトマラズ。子ハ養ハムトスレトモシカモ親マタズ。マタ老少不定ニシテ親ニ先立ツモアリ。コレニヨリテ古人モカナシミノ又カナシキハ老テ子ニニオクルルヨリカナシキハナシ恨ミテモナホウラメシキハ若クシテ親ニサキタツヨリウラメシキハナシトイヘリ。 傷(イタマシキ)哉(カナ)、親シク語(カタラヒ)ヲ交シ芝蘭(シラム)ノ朋息トマリヌレハ遠ク送ル。哀(アハレナル)哉、新ニ契ヲ結シ断金ノ昵モ魂サリヌレハ独悲ム。今日アレハトテ明日ヲ頼ムヘカラズ。マコト上ハ大聖世尊ヨリハシメ、下ハ悪逆提婆ニ致ルマテ、ノカレカタキハ無常ナリ。貴キモ賤シキモ今日ハ人ノウヘニミレトモイクホトモナク吾身ノウヘニナリヌルコソ儚キコトナリ。タトヒ百年ノ齢ヲタモテトモマタ一炊ノ夢ノコトシ。 カカル道理ヲシリナカラ後世ヲオソルルココロモナクイタツラニ光陰ヲオクラムコト浅間シキ次第ニアラスヤ。 ココヲモツテ善導大師、人間総々トシテ衆務ヲイトナム年命ノ日夜ニサルコトヲオホヘズト仰セサフラフナリ。 タレノ人カオトロカサラムヤ。 依テ各々スミヤカニ後生ノ一大事ヲ心ニイレ弥陀ノ本願フカクタノミ念仏ヲ申スヘキモノナリ。穴賢穴賢。」 これと同じ内容が『御文』にもございます。「マタ老少不定ニシテ親ニ先立ツモアリ」の文節からも想像できますが、ひとまず引用します。 『御文』3-4「大聖世尊の御文」  「それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰ふるならひなり。さればただいたづらに明かし、いたづらに暮して、年月を送るばかりなり。これまことになげきてもなほかなしむべし。このゆゑに、上は大聖世尊(釈尊)よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。しかればまれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり。{乃至云々}」 [文明六年八月十八日] 『御文』5ー16「白骨の御文」  「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。 されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。 されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。」 蓮如上人が「はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。」といわれ、 堯秀上人が「スミヤカニ後生ノ一大事ヲ心ニイレ弥陀ノ本願フカクタノミ念仏ヲ申スヘキモノナリ。」といわれている、 この2つに何か違いがあるとでもいいたいのでしょうか。 すくなくとも、誰かさんが言われる「念仏ないから信心ひとつ」とは違うでしょうね。 果たして「白骨」を説いている方は、その違いに気づいて修正できるのでしょうか。 なもあみだ、なもあみだ  Abc(龍教)