権仮方便と善巧方便(真偽検証さんから引用)

何度も何度も 繰り返し繰り返し沢山の人から言われて、やっと言葉だけ覚えた伊藤健太郎さん。

伊藤健太郎さんは高森親鸞会所属 )言葉は覚えたようですが意味は説明出来ない。

 

引用開始)真宗では、方便について、善巧方便と権仮方便とが言われます。

(1)善巧方便

方便とはウパーヤの訳語で「近づく」という意味ですが、向きをハッキリさせると、「仏が」「私に」近づくです。そして、真実の智慧を体得した仏が、真実の慈悲をおこし、衆生に近付いて、巧みな方法で衆生を救済していくことを善巧方便というわけです。
上の引用文中で阿弥陀仏を方便法身というときの方便が善巧方便であるとありますが、例えば、

諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。(証文類)

(現代語訳)
仏や菩薩がたには二種の法身がある。一つには法性法身であり、二つには方便法身である。法性法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身をあらわす。この二種の法身は、異なってはいるが分けることはできない。一つではあるが同じとすることはできない。


この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。
これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。
この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。(一念多念証文)

法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。(唯信鈔文意)


と教えられています。


(2)権仮方便

権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないので、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいいます。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられます。このように暫く用いますが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便といいます。例えば、「方便化身土」といわれるときの方便がそれです。他にも、

聖道権仮の方便に
衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる
悲願の一乗帰命せよ(正像末和讃

この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。(化身土文類)


などと教えられている方便が権仮方便にあたります。

歎異抄』後序に

おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。

とあるように、経典やお聖教には真実と権仮があい交じって説かれています。親鸞聖人の御本意は、権仮方便をさしおいて、真実を用いることにあったことをよく知って下さい。


(3)『御一代記聞書』のお言葉

蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふ。

蓮如上人は教えられています。

「方便をもつて真実をあらはす廃立の義」の方便は、廃立とあるので権仮方便です。このお言葉では、権仮方便を説くことによって、何を捨てるべきかをハッキリさせ、真実をより顕す手だてになされているということをいわれています。『顕浄土真実教行証文類』に、『顕浄土方便化身土文類』を書かれたのは、廃すべき仮(権仮方便)の法門を顕し、真実の法門をより鮮明になされるためということになります。例えていうと、白紙に黒い墨をたらすと、より白が際立つようになるようなものです。ここで白紙が真実、黒い墨とは権仮方便を指します。

「弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうるよし」の方便は、文字通り善巧方便です。「善巧方便によりて真実の信をうる」のであって、「権仮方便によりて真実の信をうる」のではありません。

親鸞会でよく根拠として出される、

釈迦・弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまひけり(高僧和讃


も、釈迦・弥陀の善巧方便によって無上の信心が発起することを教えられたものです。19願や20願といった権仮方便によって無上の信心が発起したとは教えられていないことに注意して下さい。

親鸞聖人も蓮如上人も言葉を選んで教えて下されていることがうかがえます。


(4)親鸞会で教えられる方便の定義

ところで親鸞会で教えられる方便の定義は、『教学聖典(2)』問(6)によると

我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものを言う。

ですが、これは何に基づいたものか、会員の方で根拠を知っている方は教えて下さい。親鸞会の説は無批判に受け入れて、親鸞会外の説には根拠を求めるというのもおかしな話ですからね。
このように定義し「方便だからやらなければならない」のなら、聖道門も釈尊が説かれたれっきとした方便の教説ですから、当然やらなければならないことになります。方便だからと言って実践しないようでは信仰とやらは進みませんよ。


これを機会に、方便とはどういうものであり、真宗ではどのように言われるのかを知って頂きたいと思います。