宿善 の捉え方

以下の記述は(浄土真宗親鸞会)の宿善のとらえかたです。このような とらえかたでの浄土真宗の救いに めぐまれる事はありません。「自分の中に 有りもしない信心をこしらえる」に過ぎません。むなしく時は過ぎ 幻であった人生が 今終わり火葬場で白い骨の屑の私が、宿善を求めたい と さ迷うのであろうか。なんという淋しい事であろうか。

 

(しかし、別のブログに発信している現役会員は必死になって、このようなものは間違いだと言っています。物凄く必死になるほど彼らにとって大切な「宿善問題」であることには間違いありません。)

(引用開始)

そこで本会では諸物価高騰の折柄、活動の円滑化を計るために会費の改正を決定しました。実施は52年1月からです。真実の仏法のため提供される浄財はすべて尊い宿善となります。この会費改正にあたって進んで宿善を求めさせて頂きましょう。(顕正新聞175号、昭和511220

 

とあり、又

 

 後生の一大事の助かるか助からないかは、宿善まかせであると蓮如上人は仰言っておられる。宿善は善が宿るものとも読めるのだから少しでも善根功徳を積むように心がけることが大切である(中略)時あたかも岐阜会館建設に着工している。今、会員一人一人が長者[6]のような情熱をもって財施をさせていただき、我々の財施にブレーキをかける祇多太子[7]が現れるまでに財施してこそ真の仏法者といえよう。名利のためにひげをなでるよりもやすく投げ出す千金があれば岐阜会館はたちまちのうちに建ってしまうのである。名利のためしか金を使い切れない者に次々に阿弥陀仏は宿善の勝縁を与えて下さっている。(第184号、昭和52・9・ 20

 

等とあるように、高森親鸞会への会費納入や献金等の財施も宿善となるものとしている。

 

 このように高森親鸞会では、我々の信決定のための宿善をはっきり自力によるものとし、そのためのものとして、聴聞(聞法)、破邪顕正(正しい教えをひろめる)、献金等(財施)の三つをすすめているのである。

(紅楳英顕 司教)論文一部抜粋