朝でも、仕事が終わった夕方でも、御沙汰が始まる時があります。この日も「弥陀の仰せを素直に聞いて」という和上のお使いになられた「素直」とはいかなることか?と沙汰が始まった。
沙汰開始)素直に聞ける私ではなかろう、第一 どこをつついても素直な部分が無い。
浄土真宗に接してから散々と我が身をほじくり返して悪を問い詰めようといきんだり、今死んだらどうなるかと問い詰めたりしてきているから「素直に聞いて」が分からないのだ。
我が身を問い詰めて素直だの素直でないだのと沙汰することに意味はあるか。それが間違いなのではないか。そんな我が身の有り様を如来は無視されているのでないか。
ところで、その我が身は変わると本願は仰せか。
我が身は変わらない 本願の仰せは誠だった。本願はまことだな。
お前は念仏したら助かると思っている異安心だ!(と、ネットで非難される)
私はもともと 助からない。今更何を喚いているのだ。
もともと助からない。もともと助からない者を呼ぶ呼び声が南無阿弥陀仏だ。
これ以外に珍しい事があるのか。
wikiArc引用開始) 浄土真宗では「約仏」(仏の救済を仏の側から顕すこと)といって、仏が仰る言葉を、こちら側から言うと嘘になるという言葉がある。正定聚といふ言葉もそのひとつであろう。
正定聚について、このご法義の先人が、
- 機を見れば どこをおさえて 正定聚 法にむかえば うれし恥ずかし
と詠われていた。自己自身(機)の心のどこをおさえてみても正定聚とはいえない。しかし仏の側(法)からいえば、本願を信じ念仏をする者は、浄土に往生することが正しく定まった聚(なかま。人々のあつまり)と仰るのであった。これを先人は「法にむかえば うれし恥ずかし」と表現したのであった。