ハンドルネーム等が都度変わっていても親鸞会会員かどうかは直ぐ分かる。彼等には特徴がある。
以下は紅楳英顕司教の引用であるが
まさに、例外なくこの有様になる。会話にならないのだから打ち切らざるを得ない。
さて親鸞会以外の場所での御沙汰というのは時に激しいものでもあるがそれは御沙汰によってこれまで見えなかったものや味わいなど必ず見えてくるものだ。そういうのを悪口とは言わないのである。親鸞会というのは否定と悪口の区別も御沙汰と悪口の区別も付かない幼稚園である。上下関係しかないのは浄土真宗の有り様とかけ離れたものである。
今朝ご沙汰させて下さいました御同行との沙汰の内容はこうである。
A)ある和上は「本願を素直に聞いて、、、」とよく仰るが素直に聞いていけるものではないのでないか?
B)確かに素直に聞けるようなものなら法蔵菩薩様のご苦労は要らないかも
C)和上は経典では無いと必ず押さえた上で、自分が自分を本当に素直でない者だと分かるものだろうか?経典は分からないものだと理解している。分からないものだと、分かる事が多い。
このような沙汰である。おそらく親鸞会会員ならば何一つ理解できないだろう。問題なのは何一つ理解できず、会話もできない親鸞会会員も大乗仏教では救われると説かれている事だ。ヒトラーも救うというのだ。プーチン大統領も、過去のいかなる極悪非道の独裁者でもだ。(いや、自分は到底こんなものは慈悲などかけられなくて当たり前だ)それにしても令和の世にまで恐ろしいものが蔓延ったものだ。