ずっと教わってきた考え方や価値観は死ぬほどふりはらっても変えられない

小さい頃から、教わってきた ものの考え方は余程の事が無いと変えられない。そういう意味では、頭脳の善し悪しはあるのかもしれないと思う。見ていてそう思う。柔軟性というのだろうか。

 

歳をとると頑固になるというのは1つには脳が老化して違う角度からの見方や考え方が出来なくなると聞いた事がある。また認知機能が落ちてくるので車の運転免許更新等も厳しくなると聞いている。

 

私たちは生まれたその日から一つの方向での考え方を教わってくる。大多数がそうだ。それは、「次第」ということ。

①の次は② 次は③ これは当たり前だと信じている。

より早くより優秀に、より多く貢献しより好かれより真面目により程度の高い人間になれという呪いである。脱落するのは恥ずかしいから少しでも少しでも鼻の先でも他人よりリードせねばならないという方向性と価値観である。たとえ脱落した人でさえも、どこかで脱落した自分を許してはいない。呪いで覆われている。争いも嫉妬も卑屈も妬みも優越感も、そのような価値観の呪いから生まれてくる。宗教活動でもその呪いにピッタリくる話は「分かりやすい」と言い、1度自分の価値観とピッタリ合うとどこどこまでも離さない。呪いにピッタリくるようなものを煽る宗教活動は間違いだが、気づきにくい事この上ない。

そのようなものの価値観や世界観をガラリと変える事は不可能と言わざるを得ない。見ていて、本当に「頭がいいな」という方がある。こういう方々は直ぐ角度を変える事ができる。多角的な見方ができる。

 

逆に暗記ゲーで小さい頃から優等生だっただろうけど頭がかたくて角度を変えて見る事が出来ない人、

何を言っても暗記ゲー、教学聖典(宗教法人浄土真宗親鸞会発行短冊等)9冊だか10冊だかの丸暗記ゲーと、因果の道理(だけ)を覚えている頭で、頑なに「宿善」だのを求めるしか無いのだという論理。論理というても論は無い。こんな論理破綻に何故頑なになるのだと笑うことなかれ、この方向性と価値観は人間に生まれて生きるために身につけたものだ、簡単には角度は変わらない。もともと身についた考え方を更に最大限に煽って競走させているのだから角度を変える事は出来ない。我が身の殻をどんどん固くする。この団体に限っては本当の意味で頭の善し悪しは試されるかもしれないと思う。

 

(敢えて語弊のある表現になっています)