知識帰命

 

知識帰命

ちしききみょう

ちしききみょう 知識帰命

 衆生を救う阿弥陀仏とそれを教える善知識とを同一視し、特定の善知識への帰依を要求する理解。真宗における異安心の一つ。善知識だのみともいう。『改邪鈔がいじゃしょう』第18条(註 940)や『御文章』2帖目第11通(註 1126)などに批判がある。(浄土真宗辞典)

wikiArc より引用
 
浄土真宗のご法義を聞かせてくださり勿体なくもご名号を信知される身になり南無阿弥陀仏称名念仏する身に救われた夕顔が、もし○○様は私の善知識と申し上げたとしましょう。
おそらく、御開山のようになされるでしょう。おお!!お同行と手を取られるでしょう。自分だけの話を聞け、などという態度はなされないし、聞いた夕顔も他の方の話を聞かず相当に偏って1人だけの話を聞いていくような無礼な態度を取らないと思います。
 
知識帰命の恐ろしいところは、説く内容ではなく人物で判断をして持ち上げ、持ち上げられて最終的に高森親鸞会会長のような人を作ってしまうのです。親鸞聖人のように「知らん!」とは なかなか言えないのです。人間は泥凡夫、広い会場で沢山の聴衆に拍手されたら舞い上がってしまうのも無理はありません。ですから、ひとりひとりが本当に気をつけていかないと直ぐに第2の高森親鸞会は出来上がってしまうのです。今はカルト新興宗教の範囲の親鸞会ですが、高森会長だって最初は小さな徹信会から始まっているのです。せめてあのままであればここまでの酷い犠牲者は出なかったのではないでしょうか。