寒い冬だった コロナ感染患者さんを雪の中走り回って検査をしていた夫。
この1年は死にものぐるいで生きてきた。
生と死を真正面から受け止めようと必死だった。
浄土真宗の門信徒でなければ、夕顔は生きていなかっただろう
以下は、新聞紙上に掲載されましたものをコピーしブログに残すものです。
(記事を文字起こしして主人を想って下さりました方に感謝致します)
新聞紙面引用開始
___科医院長
○○○○さん
小児科医として地域の子どもに寄り添い続けた○○さん
=撮影年不詳、射水市内
2023年1月24日、64歳で死去
柔和な笑顔を絶やさず、子ども達に寄り添い続けた小児科医だった。第二の古里となった富山県で、地域の小児医療の向上に尽くした。
和歌山県新宮市出身。名古屋大で建築を学んでいたが、子供が好きだったこともあり、小児科医を志し、3年で中退して富山医薬大(現富山大)に進んだ。三重大附属病院の小児科などで働き、志摩こどもの城クリニック分院長を勤めた。その後射水市に移り住み、2005年に開業した時に、発達障害や不登校の子を対象にした「発達外来」を始め、一人ひとりの心のケアに尽力。助けを求めて遠方から通う親子もいた。小児アレルギーの相談や治療にも携り、多い時は、1日100人の患者と向き合った。
熱心な対応の根底にあったのは、「ドクターになれなかったら小学校の先生になろうと思っていた」と言うほどの子供たちへの愛情だった。
14年、射水市医師会長に就任。
周囲への目配り、気配りを大切にし、様々な仕事を一手に引き受け「〇〇先生の次に会長ができる人はなかなかいない」と言われた。
別れは突然だった。今年1月県内の医師との会合で元気な姿を見せた後、帰った自宅で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。心筋梗塞だった。
2月に同市医師会の会長職を引き継いだ、〇〇クリニック院長は「地域になくてはならない方だった。勉強熱心で、エビデンス(科学的根拠)に基づく医療を提供していた。失ったものが大き過ぎる」と悔やむ。
3月に開かれた「お別れの会」に大勢の人が訪れ、温厚な人柄と功績を忍んだ。その中には、小学生の頃から発達外来に通っていた男性もいた。妻の〇〇さんは、農業高校に進んだその男性が就職先を決めた時、自ら作った米を持ってきてくれたことを思い出す。「夫も私も嬉しかった。食べるのがもったいなかった」と語る。
参列者の多さに「こんなにもたくさんの人に慕われていたのかと驚いた。家では見せない部分だったから」と〇〇さん。子供たちを優しく見守った医師の姿は、人々の心に深く刻まれている。
(山本光)
新聞紙面引用終わり 写真割愛