「因果の道理」を利用した信心販売の霊感商法は統一教会と同じ手法
とくに浄土真宗親鸞会という団体の構成員の頭の中は因果の道理でいっぱいになっている。また高森親鸞会会長は構成員から募集してまで繰り返し因果の道理の話をしたがり構成員は構成員で信じられるものは因果の道理しかない。この断章しまくった挙句の聖道門の因果の道理を浄土門に勝手に組み込んで、理解したつもりになり、死後の「運命」までも語り出す。運命というものを浄土真宗で語られる事は無い。しかし、未来に待ち受ける「運命」を決すると脅す、このやり方は伊藤健太郎氏が「10万円のバッグに例えた信心という物柄」を売りさばく、統一教会の「高額献金 」「高額な壺」と本質は同じであろう。それでも信心さえ得られたら良いではないか、という妄言がある。親鸞会の構成員も分かっている事ではあるが、間違った教義で得た信心は間違っている。せいぜい、一生求めても信心は得られないのだという結論になるのが関の山ではないのか。
通仏教(聖道門)の因果相順の理(因果の道理)のみを信じて阿弥陀仏の本願力による報土の因果(仏因仏果)[1]を受け容れられない者を批判していた。
「正信念仏偈」曇鸞章には
とある。『改邪鈔]には、
- おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相[2]をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理〔因果の道理〕にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理〔因果の道理〕に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。
- いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位、滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。この仏因仏果においては、他力より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきにあらず、また撥無すべきにあらず。しかれば、なにによりてか「因果撥無の機あるべし」といふことをいはんや。もつともこの名言、他力の宗旨をもつぱらにせらるる当流にそむけり。かつてうかがひしらざるゆゑか。はやく停止すべし。(改邪鈔 P.939)
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