周回遅れ (ウィトゲンシュタイン からのお知らせ)

オーストリアのウィーン生まれのユダヤ系で、イギリス・ケンブリッジ大学で教鞭をとった、20世紀最大ともされる哲学者ウィトゲンシュタイン。 彼の言語と論理の哲学は、その後の哲学のみならず学問全体、さらには現在あるコンピュータの誕生にも大きな影響を与えたとして知られています

 

と、テーマは大きいですが、それをかなり小さくして 自分に落とし込んだ駄文を作ってみようと思う。これだけもネットが発達するとは思っていなかった(まず これが人生最大の環境の変化だ。勿論私の人生において。)

このネット環境に強い人と弱い人の程度の差はかなり大きいのではないかと思う。

 

少なくとも私はビリだと思う。

運動会の徒競走で1等になる子もいればビリの子もいる。

算数のテストなら100点だという子もいる。おそらくその類の差と評価として変わらないと思う。

 

しかし現代においては、ネットがここまで重要なツールになっているのだから必修科目でなければならない。(今の教育現場は当然だが採用している)

問題は、私のようにネット科目が超絶苦手な上に学びとして やって来なかった隙間世代は情報へのアクセスが周回遅れになるという事だろう。これは最近あった個人的な出来事であるがリアルに現場を見て驚き大変な事ではないかと思って ようやくネットに開示したところ、なんと4年も前に既に論じられていたという、笑うに笑えない状況に愕然とした。

個人的な事は書いても誰の為にもならないが、個人ブログなので許してもらうとして日々の生活の中で今は当たり前にネットへのアクセスを行うべし、と決めたのだ。下手は下手なりにネットへのアクセスをする事は有益であると判断した。

これまでしなかったのは苦手もあるが紙媒体のほうが把握しやすかったからだった。紙媒体は練り上げられた文章であり書き記す作業というのは余程の重大な内容くらいで、あとは口頭で充分であり(電話という手段で意思疎通はできた)

最近、紙媒体と同じように練り上げられた文章を幾多の根拠を元にして展開されているwikiArc という浄土真宗のコンテンツに学ぶ事をし始めた。wikiArcの場合おもしろいのは各々が新しい項目を作っていけるようになっている。この作者の方の莫大な足跡はネットでなければ展開されず新しい項目を誰でも作成に挑戦できるようにするにはネット以外の手段では不可能だろう。また内容に修正変更を加えるには紙媒体よりはるかに扱いやすい。

ネット上の文章のやりとりについても(論は無いが)論じてみたい。あくまでも文章というものはこのように書く、という固定観念があるとネット上の文章には到底対応出来ない。もともと伝達には必要の無い文は省くのは常識だろう。これは伝達を的確に伝える為には必要であるが会話となると話は別になる。実はネット上の文章には「会話」あり「伝達」あり「感想」あり「批判」あり「矜恃」や「相談」もあるのではないか。これらのものが混じって存在しているため同じテーマに集う人達の文章であっても定義は定かではない。じゃあ「会話」の定義てなに?というややこしい事が起こる。今のネットの使われ方を見ると何もかもがゆるく混じりあい、ある程度の幅を持たせて許容しながら必要なコミュニケーションを自らが選択していく使い方が結局のところベターなのだろうと思う。

 

地球の裏側の人と瞬時に情報共有できる今、かつて駅の掲示板を見て友人知人の足取りを知り駅に荷物を預けるような時代に生きて来た自分にとっては夢の時代が来ているのだ。

言葉の持つ意味は母集団によって変わる。真宗の人々にとって「自力や他力」は深い意味を持つが、そうでない人に無理やり「他力」の意味が違うなどというのはズレているように思う。言葉というのは、どのような枠組の人で交わされているかで意味が変わる。

 

(言語と現代のネット社会についての投稿文のたたき台なので)