このように高森親鸞会では、我々の信決定のための宿善をはっきり自力によるものとし、そのためのものとして、聴聞(聞法)、破邪顕正(正しい教えをひろめる)、献金等(財施)の三つをすすめているのである。
(紅楳英顕 司教)論文一部抜粋
→これを「弥陀の願力でさせられているんだ!!」と言い出した会員がいます。
させられている、と「自覚」しているような献金は本来の献金ではありませんよ。
何も思わず、何も考えず、苦しいだの言わず、よろこんで出して、出したとも思わず、そういう人なら反論する資格があるでしょう。
苦しい中を我慢して出せば厚くなるのが「宿善」ではありません。
私の親鸞会に出したお金が「宿善になる」て、造語ですよ。