高森顕徹の年頭所感 ②

同じく念仏を称えていても、「念仏は、どんな善よりも優れていると言われているから」、ぐらいに思って称えている念仏者もあれば、「どんな善よりも念仏は、ケタ違いに大きな善根だ」と信じて、ひたすら称えている念仏者もあるのだ。
 その称え心を最も重視されたのが親鸞聖人である。聖人は、いま挙げたような心で念仏を称えている人を総括して、自力の念仏者として詳述されているのである。
 それに対して、阿弥陀中の不可思議の願力に救われた嬉しさに、称えずにおれない念仏者を、他力の念仏者となされ、自力の念仏者と峻別されている。

 

꙳★*゚この文章、誰が書いたのか知りませんが、分かったつもりで書いていますね。

「私が」称える念仏 という事にガンガンに固執して「私が」嬉しさに称えずにおれない、「私が」変わらねば納得いきませんか、やっぱり。何が他力ですか、何が自力ですか、四の五の言うたは昔の事どころか、「今ガンガンに四の五の言うとる」そのまんまやないか。ガンガンのまんま、高森流で言えば真っ逆さまか。安楽椅子が気持ち良すぎて、立つ気も無いで威張っていて良いの?