高森顕徹の年頭所感 ①

年頭所感
念仏者は無碍の一道なり 高森顕徹
 有名な『歎異抄』第七章冒頭の言葉である。
 先ず親鸞聖人は、どんな人を「念仏者」と言われているのか明確にしておかなければならない。
 「念仏者」と聞くと、“南無阿弥陀仏”と称えているすべての人と思えるのだろうが、そうではないのである。꙳★*゚誰が思えるの?勝手に藁人形作っている、毎度毎度。
 科学的には同じ涙でも“うれし涙”あり、”悲し涙””くやし涙”など、さまざまあるように、同じように“南無阿弥陀仏”と称えている人でも、称え心は決して同じではない。
 夜中に通った墓地で、魔除け心で称える念仏もあろうし、肉親と死別して悲しみ一杯の心で称える念仏もあろう。声優が台本にあるから仕方なく、仕事で称える念仏もあるだろう。
 同じく念仏を称えていても、①「念仏は、どんな善よりも優れていると言われているから」、ぐらいに思って称えている念仏者もあれば、「どんな善よりも念仏は、ケタ違いに大きな善根だ」と信じて、ひたすら称えている念仏者もあるのだ。꙳★*゚ぐらい、という表現は恐ろしいですね。
 ②その称え心を最も重視されたのが親鸞聖人である聖人は、いま挙げたような心で念仏を称えている人を総括して、自力の念仏者として詳述されているのである。

 

꙳★*゚私は、この年頭所感をここまで読んで、何を言っているのか既に全く分からない。

あくまで① をいうならば、また「金集めと人集めに走り回れ」ぐらい、に思っているとしか考えられないのです。いや、②もあるんだと高森がいうならさらに輪をかけて分からない。

 

そもそも、こんな歎異抄の解説を高森親鸞会の会員は読めるの?