高森顕徹 華光会に謝罪したほうがいいと当たり前に思う

夕顔の日記

 

何かとあまりよくないお話の飛び交う覚如系・・・しかし高森顕徹は謝罪せねばならないと改めて思う。

 

書物を見たら、伊藤康善さんは大変な文才があられたようですが、そこを丸写して、自分の文章として発表したら社会的には謝罪では済みませんね。

 

今、高森会の中にいる人たちに、これは誰の文章ですか?と問うたらどうなります?「高森先生です」と言いますよ。

 

こんな派手な悪事をどうして出来るんでしょうか。普通に悪事ですよね。文章だけで無いですよ、体験まで丸写ししたのが痛かったと特専部の人が言いました。

 

特専部が言うわけない、そんなわけない、と思うならば名前を晒しても構いません。でも私は今は書きません。辞めるか、辞めないかを悩んでるときに書いてもいいことないからです。

 

大沼さんに至っては、お歌なるものがほぼ丸写しでした。

 

浄土真宗にまだこころが残っているのならば、あなたの為に私の文章読んで辞めてください為になるならないは、どうにでも解釈できます。

 

さて、高森親鸞会は、こいつらの同族の言葉がありすぎます。かの近藤智史さんと中央仏教学院へ入学しそのまま試験を受けて、他愛のない「わーい勝った、はりゃ負けた」と遊んでいた時に真宗学系統は速攻で合格になりましたが、二人とも仏教学を落としました。何年も前ですが。

 

あの時に、いかにひどい頭かと思いましたね。辞めることです。まず。

 

また文章だけでは、対面してないのでなかなかに伝わりにくいです。また受け取りようが人それぞれです。私も今も、「なんであんな言葉が怒るんだ?ということは沢山あります」が、それは、その人が私を知らんからです。

 

文章だけでは、なかなかに忖度しないと無駄に嫌われますよ。しかし、私はその嫌われたくない根性は捨てました。面倒ですし、何か言わなければ、怒りさえも無い。忖度してお嬢様やってないで、泥臭くどんくさく、ぶちまけたらよろし、と思います。

 

我慢して、そっと生きる癖が、高森親鸞会や、高森恭子の光る眼やらの中で、形状記憶合金みたいに、ついて離れないのでしょう。気の毒に。